徳川家康の末っ子で初代水戸藩主・頼房の三男として生まれた光圀は水戸藩の第二代藩主となるが、十八歳の時「史記」を読んで感動し、歴史学者の道を志した。光圀は多数の歴史書を調査する中で、「古事記」に注目した。光圀は「古事記」をどのように理解していたのか、その一端を知る、興味深い話がある。
光圀が尾州・紀州の二公とともに江戸城内に赴き将軍に拝謁した。そのころ城内では、幕府公認の歴史書が完成し、あとは印刷に廻すことになっていたので、歴史書に詳しい光圀に原稿をチェックしてもらった。他の人々は完成を喜んでいたが、ひとり光圀だけはそれを見て顔色を変えて、即座に印刷を停止させた。なんと日本の始祖(天照大御神)が呉の大伯(周文王の伯父)の末裔であると書かれていたからだ。
この時の幕府公認の歴史書とは、幕府の儒官である林羅山(1582-1657)と息子の鵞峯の編集した「本朝通鑑」のこと。この背景には当時「古事記」「日本書紀」の神話世界をどのように理解するか、という問題があった。
「記」「紀」の神話を中国の聖人に当てはめる解釈は、新井白石(1657-1725)の「神は人なり」といった、合理的な神話解釈をする儒学者が多く、光圀はこのような合理的な解釈を批判し、神話世界を書かれたままに理解する態度は、のちの国学者本居宣長などに通じる。ちなみに光圀の命令で印刷が中止となった「本朝通鑑」は大正年間に全編が刊行されるまで印刷は停止となっていたという。もちろん「アマテラス」が呉の太伯云々の部分はカットされている。
「我が主君は天子である。今の将軍は我が宗室である」と述べた光圀は、歴史書作りの史料を集める中で、早くから「尊皇思想」の持ち主であったと言われている。水戸光圀の修史事業は、彼の存在中には完成せず、水戸徳川家が継承して、それが完結したのは明治39年(1809)で、これが一般に知られる水戸編纂の国史「大日本史」である。この250年にも及ぶ大事業は、独特な「水戸学」と呼ばれる思想が形成され、やがて水戸光圀の「尊皇思想」は長州藩の吉田松陰をはじめ、幕末の志士たちにも多大な影響を与えることになる。
古事記不思議な1300年史 より
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